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虎響「第九」奮戦記

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「想像してたより千倍もうまいですネ」とタクトを振り終えた岩城宏之氏は言う。そのうちの少なくとも百倍分はお世辞とわかってはいるものの、団員一同思わず顔を見合わせ、今までの張りつめた緊張がいっぺんにとれ、ホットした表情になる。

去る三月の半ば、サントリーホールで行われた東京の港区主催区政50周年記念式典での音楽会で、私が所属しているアマチュアオーケストラの虎の門交響楽団(通称虎響)がベートーベンの「第九」の演奏を依頼され、本番を控えた三日前に合唱団を加えた総練習が港区内のある学校の体育館で初めて岩城氏の指揮によって行われた時の風景である。

何せ一介のアマオケにとって、サントリーホールという檜舞台で、しかも元N響の常任指揮者で、今や世界的に有名な岩城氏の棒で、その上何百人というコーラスをバックに「第九」という大曲を演奏するなどとは、想像だにしなかったビッグイベントであった。メンバーの殆どがサラリーマンであるわが虎響は、こんな機会は今後二度とないのではないかと総員大発奮、昨年の暮れ以来毎週木曜夜、忙しい岩城氏に代わって指導に来てくれている若い指揮者の下で猛練習を積み重ねてきた甲斐があったというものだ。

知っている方も多いと思うが、「第九」の第4楽章は、あの有名な歓喜の歌のメロディが出てくる前に、私が担当しているコントラバスとチェロだけの低音楽器によるユニゾン(斉奏)の部分がある。時間にしてわずか数分足らずだが、1~3楽章の主題旋律が次々提示され、それが一つずつ否定されて行くという対話形式で構成されており、その間拍子、速さ、調記号、強弱がめまぐるしく変化し、10数人で同じ旋律をピッタリ合わせて弾くには、一時たりとも指揮者の棒から目を離せない。だからその部分は少なくとも暗譜してしまわねばならない。年中、特に年末には平均10回以上も「第九」を演奏しているプロのオーケストラでさえ、この部分は指揮者が変わるたびにかなり神経を使うという。ましてこちらは全くのアマチュア、たった週一回の練習で、しかも残業、出張の多いサラリーマン、毎回の練習に必ず全メンバーが出席できるわけでもない。仕方なく私はポケットに楽譜の縮小コピーをしのばせ、通勤の電車内でウォークマンで録音したウィーンフィルの「第九」テープを聞きながら完全にこのパートを暗譜した。

話は一昔前に遡る。虎の門界隈の官公庁、例えば電電公社(今のNTT)、専売公社(JT)や私が当時勤めていた特許庁などにそれぞれあったクラシック器楽合奏サークル(NTTだけには一応小さいオーケストラがあった)同志が何となしに寄り集まって、一つ合同してベートーベンの交響曲がやれるような(当時はハイドンやモーツァルトの曲が精一杯だった)独立した大きいオーケストラを作ろうではないかという話になり、学生時代に横浜のアマオケでコントラバスを弾いた経験が多少ある私も含めて数人が発起人となり、近くの地下鉄の駅名にちなんで「虎響」を発足させたのが昭和35年。東京オリンピックの4年前だった。それ以来練習場探し、転勤などですぐ欠員が生じるメンバーの補充などに悩みながらも虎の門周辺の小さいホールや官公庁の講堂などを借りて地道ながら自前の演奏会を年一回程ではあるが催してきた。大学などでの学生オーケストラ活動や地域での文化活動の一環としての自治体の援助により設立されたアマオケの数は次第に増加してきたが、都心のサラリーマンオーケストラ、わが「虎響」は、そのころの高度成長ブームで団員の移動が激しく、また安く使わせてもらっていた練習場が閉鎖されたりしてその存続が危うくなる事態に陥った。当時広報担当委員をしていた私は、何とか打開の途を開こうと苦し紛れに某大新聞に投書し、その頃やっと練習に取り組み出したベートーベンの「運命」も「未完成」に終わるかもしれないと団の窮状を訴えた。この語呂合わせに興味を示したのかその新聞社は都内版ではあったが、今にもつぶれそうな「虎響」のことをかなり大きいスペースをさいて紹介、掲載してくれたのである。

(注)演奏会記録の方には、1970年(昭和45年)に一旦分裂後再発足してからの演奏会(1971年4月第1回定期演奏会)を掲載してあります。

この新聞記事の効果は、まさに劇的だった。
わずか30人にも足りなかった団員数が、この記事を読んで駆けつけてくれたバラエティに富んだ職業の好楽の士、タクシーの運転手あり、看護婦さんあり、先生などを含めて一挙に倍以上の団員数に膨れ上がり、一方記事を読んで同情してくれた音楽好きの区会議員などの紹介や世話で、港区内の学校の講堂を定期的に練習に使わせてもらえるようにもなった。そのお礼にそれ以来港区などの行事にはできるだけ協力し、学校の生徒のための音楽教室で小さいコンサートを催したりはしてきたが財政や運営の面では全く虎響独自の路線を歩んでいるうちに、いつしか東京にある数多くのアマオケの中でも歴史の古いものの一つとなり、新聞で紹介されたり、またその名前のユニークさ(すぐトラになる飲ん兵衛が多いからとか、演奏会にはエキストラを必要とするからだと半分は本当の冗談を言う人もいるが)から、今では入団希望者がひきもきらずの状況に嬉しい悲鳴を上げるに至り、その間に演奏技術もめきめき向上し、少なくとも中堅のアマオケまでには成長した(と思っている)。この分なら念願の海外演奏旅行も夢ではないなどと考えたり、演奏会で自分だけすごく間違えて弾いた夢などを見ているうちにいよいよ本番の日となった。

3月16日(日)、当日は生憎朝から肌寒い雨。午後2次ころからの本番演奏というのに朝8時半サントリーホール集合。休日だというのに出勤時間より早くからステージでのリハーサルが始まる。この日初めて山本直純氏(指揮者として出演)も駆けつけて、この日のための同氏の編曲による山田耕筰作曲の港区歌の練習からスタート。手入れをしてもしなくても変わらない例のひげ面で、よくTVでお目にかかる相変わらずのオーバーな身振りとガラガラ声だが、演出効果まで考えて要領よくコーラスとの合奏をまとめる指揮者振りは流石。今日のお祝いにちなんだブラームスの大学祝典序曲(昔の旺文社のラジオ受験講座番組のテーマ曲といえば知っている人も多い)に続いて、いよいよ「第九」冒頭の問題の低音部のユニゾン、初めての人が少し加わったせいか、先日の練習の時よりピッタリ合わずに何回かやり直しをさせられ、やっと午前中の練習が済んだ。

昼休みも終わり、黒ずくめの舞台衣装に着替えていよいよ晴れの式典。港区長や、区民の一人でその日の実行委員長である兼高かおる氏の挨拶の後、予定通りの曲順で本番の演奏会の幕が開けられる。抽選で入場希望者を制限せねばならなかった程の超満員のサントリーホールで万雷の拍手に迎えられて、タクトが振り下ろされる。ご存じのように、このホールはアリーナ形式といって、ステージの左右の袖の上方と後方にもかなりの客席が設けられており、四方から観客の目が注がれるので演奏者がアガリやすいホールといわれている。しかし反対に私にとっては、周囲を聴衆で囲まれてしまった時の方が、まるで大道芸人のようにかえって糞度胸で落ち着き、昼食時に外へ出て居酒屋風の店で焼き魚定食とともにお茶代わりに飲んだ一杯のビールが程良く効いたのか、またホールの音響効果が良くて素晴らしく楽器の音が響いて聞こえたせいか、我ながら実に気持ちよく演奏ができたのは意外なくらいだった。オーケストラ全体も、大した破綻もなく無事に全曲の演奏を終え、夕方から区の主催による打ち上げ会で飲んだビールのうまかったことは言うまでもない。麻布の自宅に一旦帰宅した岩城氏もまた駆けつけてくれ、「自分はオーケストラのボーナス稼ぎの場になってしまった日本の歳末の第九狂想曲の棒は降りたくないので殆ど降ろさせてもらっている。今日のような祝典で演奏してもらった「第九」はさぞ歓喜しているだろう。」とスピーチ、喝采を浴びていた。全くその通りだと思う。

その週の木曜から、天満敦子を独奏者に迎え、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲等を演奏する次の第57回の虎響の定期演奏会(6月20日、虎ノ門ホール)の練習がまたいつものように始まった。サントリーホールの余暇のする楽器からは気のせいかいつもより艶のある音が響いていた。

1997.6 奥村義道 記
元特許庁審判官、元ヘキストジャパン(株)特許部長
現在弁理士、虎の門交響楽団団員