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虎響前史から平成10年頃まで

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▼虎響のルーツはお役人の職域アンサンブル

昭和29年、虎ノ門にあった日本専売公社(専売)に社内の音楽愛好家が集まり、小さなオーケストラを結成。通産省、大蔵省からの職員も加わりメンバーは17名。
専売の隣にあった日本電信電話公社(電電)は、昭和29年に楽器の購入、管弦楽教室の開設等を経て、30年に電電公社管弦楽団を設立。団員11名でスタート。
両団ともメンバー不足に悩みながらも演奏活動を続けたが、35年8月より両メンバーをいっしょにした合同練習に踏み切った。メンバーは電電18名、専売10名、特許庁10名、大蔵2名の合計36名。練習場所は電電公社内、指揮・指導は小船幸次郎氏(元日響指揮者)。
以後約10年、このまま合同練習、合同演奏会を継続。
メンバーを増やし活動を充実することは、公社内サークルでいる限り限界があると考え、昭和45年3月両公社を出て自立することにした。その結果練習場が使えなくなり、一時練習は中断となる。
以上の経緯は”虎響前史”とも呼ぶべき部分で、この間の運営に携わったのは、ともに以後の虎響団員である田中秀雄(専売・故人)、古川芳雄(電電・退団)、奥村義道(特許庁・現団員)の3人であった。


▼昭和45年「虎の門管弦楽団」として発足、スポンサーなしのサラリーマンオーケストラを指向

練習所が確保できたため、昭和45年5月、専売公社、電電公社等とは関係のない、独自の市民オーケストラとして「虎の門管弦楽団」を設立。元の専売、電電のメンバーに呼びかけて団員15名でスタート。指揮:小船幸次郎氏
練習場所:松尾明美バレエ研究所(六本木)
練習日はこの時以来今日まで29年間、一貫して「木曜日」を続けている。
昭和46年1月、朝日新聞の紹介記事にて団員を公募、24名の応募者を得て総メンバー40名となり、市民サラリーマンオーケストラの”かたち”が整う。
昭和46年4月22日、第1回定期演奏会を葵会館ホールにて開催。以降51年まで年3回の定演を催した。
昭和49年4月、団の運営に異論を唱える一部の団員が現れて紛糾。解決のため同5月「虎の門管弦楽団」を解散。「楽しむオーケストラ」志向を確認し、新たに「虎の門交響楽団」を設立して収拾した。10名が去り、50名が新しい団に残った。
練習場を51年に麻布小学校、52年に城南中学校(六本木)に移転。
昭和57年2月、当団員の育ての親とも言うべき指揮者小船幸次郎氏逝去。後任常任指揮者に大川内弘氏(前日フィル・コンサートマスター)を迎える。
昭和57年9月、第27回定演を葵会館ホールで開催。設立以来利用してきた同ホールでの最後の演奏会となる。


▼アマチュアオーケストラの名門「虎響」に成長

昭和57~58年ごろより、活動の生命線である団員数、楽器の数や種類、指揮者が安定し、演奏活動は年毎に充実していった。
●団員数
 70名から現在は約100名。
●指揮者
 昭和57年~平成5年は大川内弘氏、以降は常任制をとらず、その都度依頼する方式とし、前回定演までに三原明人、久保田洋、森口真司、田代詞生、田久保裕一、山上純司、和田朋樹の各氏に依頼。

●定演会場
一橋ホール(3回)、ABC会館ホール(12回)の後、現在は虎ノ門ホールに固定。

●平成5年、第50回定演を記念して日フィル協会合唱団との共演で、ベートーヴェンの第9を演奏。
さらに、ブラームス、チャイコフスキー、マーラー、ベルリオーズ、ブルックナー、シベリウス、ムソグルスキー、リムスキーコルサコフなどの大曲と取り組む。